死生観

御神託が降りた日2016/01/03
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小学校低学年だった頃のある朝。
朝、食卓に揃った父が 真っ暗闇に包まれていた。それは、今思えば、「死の淵」に立たされていたオーラだったのだが、当時の私は 全く意味がわからず、ただその怖さ、恐れ、を感じていた。「怖い」そう言いながら、父から離れた私。その後父は出勤途中に 急病に襲われ、救急車で病院へ。その後も、身内や近しい人を通して、「生かされる」時には 様々な人がスタンバイし、命が守れるさまを間近に見てきた。逆に、「死」を迎えるときには、呆気ない、ということも。

ここ数日、「死生観」を問われることがよくある。この一年は、生き生きと生きる、その反面、きっと、多くの「死」も支えることになるのであろう。人を見れば、「死」が近づいている人、あと⚪︎日、とカウントダウンが後ろに表示されている人、いつどんな死に方をするか、ということまでわかることがある。それは 口にできるときもあればできないこともある。ひとり、こころの中で受け止め、できる精一杯のことをさせて頂く。

私は、「死」をおそれていない。始まりがあれば終わりがある。生まれた、ということは死ぬということ。自然界が見せてくれるように、人は、芽が出れば、枯れ葉のように朽ち果て、そしてこれから生きる生命の「栄養」となる。世の中、「死」をおそれ、どんなに痛いのだろうか、どんなに苦しいのだろうか、と嘆く人が多い。最期のとき、キラキラと輝く美しい神様が、何人もの神様を従えてお迎えに来てくださる。そして、自分自身は、「極上の至福」の中へと入っていく。

正月三が日が終われば、新たな自分が目覚め始まっていく。まずは、本格的に新年が始まる「節分」に向けて。果てしなく存在する、ひとのこころ模様。そこに寄り添える、有難いお役目に感謝しながら、刻一刻と迫ってきているそのときを、確実に感じている。

愛と感謝を込めて。

天宮 玲桜